2017年9月25日月曜日

生き続けること

フェルデンクライスメソッドは「動きを扱うメソッド」とよく言われています。
モーシェ・フェルデンクライス自身も生きている人間は静止した姿勢を取ることは(厳密には)できないという考えであり、姿勢を動的なものとして捉えていました。

先日祖母が亡くなり、葬送時に遺体に触れる機会があったのですが、肌はとても艶やかで弾力があり、まるで生きているような質感を保っていました。それに驚くと同時に、骨格は既に流動性を失い、深部は静止しているのも感じ取られ、モノとヒトの中間にある状況を学ぶことができました。

人は生を渇望するが故に、健康に動き続けたいという観念を持ちますが、逆に、生きている間は静止することが許されないと見ることもできます。

私たちは自転車や飛行機のように、生まれ出た瞬間に動きが始まり、強制的に止められるか、エネルギーがゼロになるまで安定した推力を持ち続けているのだと思います。様々な力が外から働いても、揺らぎながらもとの軌道に戻ることができるのは動いている故の現象です。

フェルデンクライスメソッドが動きを扱うということは、必然的に「戻る力」を扱うことになります。自転車を巧みに乗れる人は、かなり低速でもバランスを失わずにいることができます。小さな推力でも行きつ戻りつしながら安定を確保できるからです。

もちろん、より加速させれば当然、安定感は増します。自転車に補助輪のようなものを付ければ静止しても倒れなくなります。静止しても倒れられないのはまた問題であるとも思いますが、多くの健康についての考え方は安定させ倒れなくさせることに集約されています。

しかし、加速すれば当然に終わりは早くやってきますし、補助輪を付ければ軌道の柔軟性を失います。不安定と安定を行きつ戻りつしながら「戻る力」が働くようにしていくことは、一見薄弱な健康のように見えますが、その実最もしぶとい生であるようにも思えます。

祖母は頑強な身体を持っていたわけではなく、優れた才能に溢れていたわけでもなかったと聞いていますが、大きな危機に際して少ない犠牲でくぐりぬける舵取りをし、家を保ち続けました。晩年も取り立てて健康維持の活動をするでもなく、それでいて小さな不調や季節の移り変わりに細やかに対応しつつ、とても緩やかに機能を低下させて亡くなりました。

私は祖母とは全然違う道を歩んでいますが、ある方向性だけは引き継いでいて、それがモーシェ・フェルデンクライスの示した何かと調和するみたいです。世の中はほんと、計り知ることができないのだなと思いました。